キブツ・ボランティア体験参加者のレポートです。
2001年参加 三角和久さん2000年参加 原田瑞穂さん 2000年参加 村上達也さん 
2000年参加 伊藤美紀さん 1997年参加 螺澤智子さん 1990年参加 黒崎弘子さん


2001年参加

三角和久さんの体験記


自分が滞在していたキブツはガザの北東約20キロに位置しているスデ・ヨアブでした。テルアビブのバススーションからアシュケロンで乗り換えてそこからバスで20分のところでした。
スデ・ヨアブにはキブツのメンバーが百数十名住んでおり,南米出身の人が多かったです。キブツには農場に牛小屋,馬小屋,養鶏場,ゲストハウス,プール,テニスコートがありました。忘れてはならないのが他のキブツと共同で温泉を経営していたことです。その温泉には私達ボランティアはただで入ることができ,時々仕事でものすごい疲れを感じた時は温泉でゆっくり体を休めました。
キブツ内は静かで緑が多く,とてもリラックスできました。時間がゆったりと流れているような気がしました。それだけ安心して生活できるのです。
自分はキッチンで働いていました。朝6時半から2時半までの8時間。まずその日に届いたパンと前日のパンを入れ替えます。それが終わったら山積みになった野菜,果物を従業員と冷蔵庫にしまいます。
ゲストが多い時はものすごい数の野菜類が届きますので大変です。また,乳製品がほぼ毎日きますので,朝食前に片付けなければなりません。朝食は8時半頃に取ります。他の場所で働いているボランティアの仲間と一緒に食べていました。朝食の後はとても忙しかったです。
キブツ二ークとゲストが食べた食器類をウォッシングマシーンで洗い,それが終わるとウォッシングマシーンの洗浄です。一見簡単そうですが,皿以外にもキッチンで使った油のついた容器などがたくさんあり,簡単には終わりませんでした。
ウォッシングマシーンで働いていない人はキッチンで野菜を機械で洗い,その後それらを切るぐらいで簡単でした。昼食を取り片付け終わるのが大体3時半頃で,ゲストが多い時は3時過ぎまでかかったことがありました。キッチン,ダイニングルームで働いている人のほとんどが,キブツ二ークではなく従業員でした。英語を話せる人が1人しかいなく,コミュニケーションを取るのが難しかったです。しかし何とか英語でコミュニケーションしようとする姿には感心しました。
帰国する1ヶ月前にはキッチンのボスから,働きぶりが良かったために従業員として働いてみないかと誘われました。一生懸命やった成果があり,うれしかったです。一生,スタッフの皆さんのことは忘れません。
話は変わりますが,滞在中ボランティアトリップがありました。日帰りでしたが,ミツペー・ラモーンでは巨大なクレーターを見て,その後死海でプカプカと浮いてきました。どれも日本では体験できないので良い思い出になりました。その他休みを利用して北はナザレ,ティベリヤ,ゴラン高原を旅してきました。エルサレムには3回も訪れてしまいました。イスラエルには見所がたくさんあり,文化習慣そして宗教,日本人にはわからないことがありますが,逆にとても新鮮さを感じました。人も町もいきいきとしているために,ストレスを感じませんでした。

4ヶ月間の滞在ですっかり自信が付き,今は何でもできそうです。1年に1回はイスラエルに行って,自信と元気を得てこようと思っています。それだけイスラエルはすばらしかったです。ありがとうございました。
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2000年参加

原田瑞穂さんの体験記


「あの頃描いていた自分」になれているのかな?という疑問が,キブツへボランティアとして参加した理由でした。大学を卒業して2年目,毎日の忙しい生活の中,ふと自分自身を振り返ると,私という人物のフレームばかりが浮かび上がり,実像が薄いように思われたのです。そこで,何かアクションを起こして自分という確かな存在を得よ
うと決めました。「外国で生活する」なんて誰もが思いつく単純なアイディアかもしれません。問題はどこで過ごすかではなくてどう過ごすかという点だと考え,イスラエルのキブツを選びました。
キブツはヘブライ語で「集団生活」を意味し,共同一体化社会,ユートピア的社会主義者の集団と呼ばれることもあります。世界中で類を見ないユニークな集団の中で,私の一生のうち,短い期間ではあるけれど,世界中からやってきた仲間と共にイスラエルという聖地に触れ,感じ,考え,そして自分と向き合えたら,それはお金や物には換えられない貴重な体験になるだろうと思いました。そして事実,そうでした。
ベングリオン空港に着いた途端,日本とは確実に異なる乾いた空気と熱い風,指すような陽差しを感じ,「あ〜,とうとう来たんや!」と実感。様々なセキュリティチェックを受けてからキブツボランティア・オフィスに向かいました。オフィスの人に3ヶ月間の予定だと告げると,彼女は笑って「ゴネンは良い所だから,きっともっといることになるよ」と言っていました。
北部行きのバスのナンバーだけ教えてもらい,あとは自分で行動します。ところが,イスラエル最北のバスターミナルまでは行けたものの,そこからゴネンまでのバスがありません。困って人に聞いたら「ヒッチハイクで行きなさい」と言われ,半分泣きそうでした。日本人女性が1人,異国の地でヒッチハイクするなんて自殺行為だと思いました。が,「何とかなる!」と思い,生まれてはじめて自分の右手をヒッチハイクに使いました。夕刻で,あたりはだんだん暗くなるし,ゴラン高原に向かう車は少なく,本当に心細かったです。1時半ほど頑張ってやっと,トラックが止まってくれました。あの時の運転手さんは私にとって天使でした。ところがトラックはどんどん人里離れたゴラン高原の中を走るし,彼はパレスチナ人で英語が話せないし,私は一瞬,日本の新聞記事で「日本人女性,ゴラン高原で変死体で発見される」という記事を想像し,かなりブルーになってしまいました。それでもゴラン高原の美しい景色に興奮し,「この夕焼けが最後かもしれない」なんて思っていました。すると,目の前に小さな集落が見えてきて,彼が「ゴネン,ゴネン!」と言って笑い,私を降ろしてくれました。今思うと,彼に対し大変申し訳ない想像をしていたんですね。
キブツ自体は200人程度の規模で,ボランティアは11人と少なく,かなり個性的な性格でした。そのためか1人1人個室を与えてもらい,その点は良かったです。私の仕事はガーデンで,はじめは「お花を植えたりするかわいい仕事」と喜んでいましたが,実際にはモロ肉体労働!朝は4時から電気ノコギリで木を切ったり,トレーラーで切った木を集めたりします。今まで屋外で働いた経験のない私にはかなりハードでした。おまけに夏で気温が40度を越す日も珍しくなく,食事にも慣れなくて,痩せてしまいました。そんな私の様子を見かねて,私の部屋の向かいに住んでいたイスラエル人の男性が毎日料理してくれました。彼は有名ホテルでシェフをしていたので,本当においしかったです。
だんだん生活にも慣れていきました。毎日の生活は,だいたい夏はお昼まで,冬は3時くらいまでで仕事を終え,その後はプールへ行ったり,皆でヨルダン川へ泳ぎに行ったり,草の上でギターを弾いたり本を読んだり,好きなことをして時間はゆっくり流れます。ボランティア用にキッチンやダイニングルームもあり,毎晩のようにボランティアが各々自国の料理を作ってお酒を飲みながら食べました。私の作る味噌汁は大ウケで,キブツのメンバーも食べに来ていました。ゴランワインという,イスラエルで有名なワインがありますが,それが最高においしくて毎晩飲んでいる私を見た友人が,ブドウ畑に連れて行ってくれ,一緒にブドウからハンドメイドで赤ワインを作りました。
面白いことに,同じように瓶詰めしたワインでも,ちゃんとワインに仕上がったボトルもあれば,酢になってしまったボトルや,アルコールが強すぎて飲めないボトルもありました。夕焼けの時間帯には,よくゴラン高原を散歩しました。静かに夕日を見ていると,鹿や野ウサギが出てきます。夜は,手の届きそうなほどの星空の下,キャンプファイヤーを囲み,友情や愛情,神や宗教,人生について,しばしば夜明けまで話しました。あの美しい時間と言葉達は私の一生の宝物です。
シェバット(安息日)にはキブツのメンバーの友人が,街へ映画を見に連れて行ってくれたりします。1ヶ月に3日ある特別休暇とシェバットを組み合わせて,仲間とエルサレムや死海などのイスラエル国内はもちろん,エジプトのシナイ半島へ行って紅海でダイビングしたりシナイ山に登ったりもしました。

私がイスラエル入りしてから,1ヵ月後にパレスチナとの紛争が激化し,日本大使館から,安全な国への出国警告書が毎月のように届きました。あの頃はよく,ゴラン高原から爆音が聞こえてきて地響きがしたり,軍用飛行機がシリアからレバノン側へ低空飛行していました。今思うとやっぱり危なかったのかもしれませんが,キブツ内にいれば安全でした。私にとってそれは,そんなにも悪い状態ではありませんでした。なぜなら,そういう状況であったからこそ,各々の民族意識が高まって,イスラエル人の友人からはユダヤ人の,パレスチナ人の友人からはパレスチナ人の,宗教,神,民族,土地,歴史に関する様々な事を聞くことができたからです。ボランティアはユダヤ人ではないので,本人さえ積極的になればパレスチナ人の友人もできました。アラブの友人宅に招待されて,シリアとの国境にあるアラブ人自治区へ行きましたが,そこで私はアラブ式のもてなしを受け,ユダヤ人の友人も交えてよい時間を過ごすことができました。そこで私が感じたことは,彼ら双方とも個人レベルでは上手くやっていけるという事。皆,国籍,民族,血,人種関係なく,本当は心から平和を望んでいるという事です。それを一番強く感じたのは,やはりエルサレムの旧市街でした。キリスト教地区からの鐘の音と,銃声を聞きながら,「嘆きの壁」とその向こうにあるイスラムの金色のモスクの輝きの前に立った時,私の中に名前も顔もない,私自身の神が生まれたように感じました。ただ一心に祈りをささげる信者の姿を見ながら,「嘆きの壁」とは彼等双方の間にある,超えられない理解と愛情への「嘆き」の「壁」なのではないかと思いました。
日本人は平和の意味を「和を以って貴しとなす」と考える傾向がありますが,外国人は違います。殆どの国は歴史の中で侵略,戦争を経験し,彼等にとっての平和とは,「戦争と戦争の間」であり,勝ち得るものなのです。結局イスラエルで半年を過ごし,その経験は私の人生の大きな一部となりました。イスラエル出国後は,エジプト、ヨルダン,イタリアを旅行して帰国。帰国してから,イスラエルで知り合った知人にアメリカへコナイカト誘われ,3ヶ月間アメリカに行きました。自分の英語力をネイティブの国で試したかったことも理由の一つでしたが,そこで1ヶ月間彼の仕事を手伝い,あとの2ヶ月間はアメリカを車で一周しました。とてもハードな旅でしたが,楽しかったです。
キブツは小さな集団でしかないかもしれませんが,私にとっては世界を知る扉の一つだったのです。いろんなことを考えさせられる旅でした。そして,これからも。ワーキングホリデーでオーストラリアやカナダへ行くのもいいと思いますが,イスラエルでは世界を違った角度から見ることができます。今も世界中の友達とE−MAILや手紙で連絡を取っています。キブツで知り合って結婚したカップルもいるくらいです。ゴネンで共に感動を分け合った美しい友達は私の第二の家族です。
キブツに興味をもたれた方は,その存在を知っただけでも大きなチャンスです。英語力に自信がなくても大丈夫。基本的な単語さえ知っていれば何とかなります。メンバーのほとんどはネイティブではありません。皆,第二外国語として英語を話しています。わからなければなんでも積極的に尋ねるといいだけです。これは何に関しても言えることですが,自分から積極的に働きかけることで,知らなかった世界がどんどん見えてきます。自分の人生のプロデューサーは自分以外の誰でもありません。「百聞は一見にしかず」,ぜひ,実際に行って,見て,感じて,そして考えてください。必ずかけがえのない体験になるでしょう。
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2000年参加
村上達也さんの体験記

 6月4日早朝,ベングリオン空港着。眠気と疲労を引きずったまま,バスに飛び乗りテルアビブを目指す。バスの窓から目に飛び込んでくるのは,異国の景色とヘブライ語の標識。思えば何故イスラエルに来たのだろう・・・
 それまでの私は日本での閉塞状態の生活に退屈と苦痛を感じていた。それを紛らわすかのように色々な国の政情や文化についての本を読んでいた時,イスラエルという国に何故か心を惹かれた。現在の日本に一番欠けているものをイスラエルは持っているような気がした。色々調べているうちに,このプログラムの存在を知り参加してみようと思った。仕事も辞め,あれよあれよと言う間にベングリオン空港に。
翌日,キブツプログラムセンターへ,緊張して警察署に出頭するような気分で向かう。なぜなら私の英語力は中学生レベル以下・・・しかしセンターに着いてみるとやや拍子抜け。ブロークンな英語でも何とか切り抜け,レバノン国境に近い地中海沿いの街,ナハリヤの近郊,キブツ「ベターヘ−メック」に身を預ける事になる。
 イスラエルと言う国柄,危険なイメージを持っていたのだが,着いてみるとここでも拍子抜け。街もキブツもそして住人,ボランティアも皆、陽気で活気に満ちている。中東に来たと言うよりもヨーロッパの田舎に来た感じ・・・とにかくそこで私のキブツボランティア生活が始まった。
私のキブツはマネージャーがオランダ系のユダヤ人と言う事に関連してか、オランダ人のボランティアが多数を占め、後は南アフリカ,デンマーク,イギリス,ベルギー,トルコ,イタリア,韓国,アメリカなど。私のいた間は日本人は私一人で、充分英語の勉強が出来た。やはり英語の中で生活をしていると上達も早いと感じた。それでも語学と言うのは奥が深いものだ・・・まだまだ勉強は必要だが・・・
 「ベターヘ−メック」は農業主体のキブツで、バナナ、アボガド、綿花等の栽培が主流である。ボランティアの仕事はバナナ、アボガド、食堂、ランドリー、キブツ内の医院の事務、土産用のシルクの模様のペイント、乳製品の生産そして自動車の修理工場の仕事など多種多様。かなり大規模なキブツだった。私の仕事場はバナナ農園で、朝5時起床で昼の2時半頃迄、灼熱の太陽の下、映画の「ランボー」の様なナイフを片手に仲間と農場内をトラクターやジープを転がし、走り回った。バナナの仕事は収穫、バナナの木や実の管理などで、収穫の時期には20キロ〜40キロのバナナを百十数個、ボックスに積み込む重労働。キブツ内で一番キツイ仕事だったらしいが、私は日本でも肉体労働をしていたので特に苦痛も無く、毎日楽しんで仕事が出来た。ちなみに他のボランティア達は私達のことを「バナナマフィア」と呼んでいた。(笑)
 キブツは毎月3日の有給休暇の様なものをボランティアに提供してくれていて、この休暇を利用してエルサレム、死海、ガリラヤ湖、ゴラン高原、エイラット、ネゲブ砂漠へ行ったり、レンタカーを借りて国内を走り回った。異国の国、見るもの全てが刺激的で、この国の文化、歴史、そして抱える問題を自分の目で確かめる事が出来た。特にエルサレムにはこの国の抱える問題が凝縮されている様に感じた。それについては、これから多くの人がイスラエルへ行き、その目で見て感じてもらいたいと思う。
 私は約6ヶ月イスラエルに滞在して、遊びの中にも色々な吸収するものを見つけたり、この国だけでなく、他のボランティアから彼らの国の「生の声」を聞いたりと、日本に留まっていては得る事の出来ない刺激や情報を得ることが出来た。ここで知り合った仲間とは今後も連絡を取ったり、彼らの国を訪ねる約束をしたりしている。
 この時期パレスティナの独立問題や暴動など危険な話はあったが、キブツ内にいる限りは全く安全で危険を感じる事もなかった。英会話にしても、喋れないからと言うよりも、喋れないからこそ刺激があり、毎日が緊張感を持って過ごせたし、退屈もしなかった。新しいものや刺激に飢えている人は是非このプログラムに参加して欲しい。 
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2000年参加
伊藤美紀さんの体験記



私の選んだキブツはエイラットから車で20分程北に上るところにあります。テルアビブのキブツ事務所に行ったときに、北か南かの選択を強いられました。エルサレムを期待していた私は心の底で少しがっかりして、少し悩みました。「小さくて、現地の人が多い場所」その条件は両方とも満たしていて、決め手はこの一言でした。「ここは菜食主義なのよ。そして特別!」何が特別なのかなんてその時は気にもならないで、ただ「痩せるかなあ」という不純な動機でこの2ヶ月を過ごすばしょを選んだのでした。 
バスは都会から離れるにつれ、砂漠へと景色が移っていきます。砂丘を想像していたため、茶けた岩壁に驚かされます。 バスを降りると、キブツの方が迎えにきてくれていました。そのうちの一人レイチェルはオーバーオールを油だらけにしていて、私は一瞬怯んだのを憶えています。(後でこれは仕事着だと気づくのですが。)バス停から10分、岩の間を彷徨う道を車で進み、ようやく辿り着いたネオット・スマダ−ルは砂に埋もれているように感じました。
次の日に、茶色の世界を見せてもらいました。初めて見るオリーブに、アーモンド、樹に成るその実は、無知な私に感動を与えてくれました。この日の朝食にも。テーブルの真中に丸ごとの野菜が置いてあり、好みの野菜をサイコロ状に刻むことからみんなの食事が始まります。無心に野菜に向かう、その姿になれるまで一週間かかりました。一度試してみるともうイスラエルサラダに夢中になり、オリーブオイルとチーズ、そして卵の組み合わせに毎日唸っていました。ここで採れるものを食べるために、牛を飼育していないこのキブツでは牛乳というものはなく、代わりに山羊のミルクがありましたが、臭いが強いため飲むのは諦めてしまいました。
 ここでの生活はボランティアリーダーのコビに大変助けられました。英語を話せない私はボランティアに溶け込むのが難しく、朝も夜も、食事の後は必ず彼のそばに座って話をしました。彼は忍耐強く会話を楽しんでくれ、当初はこの時間に救われたといっても過言ではありません。
 仕事をするうちに少しずつ、自分を出せるようになります。それでも最初はパントマイムが必要で、動作が派手なのに加えて、さらに激しく伝えようとするので、「美樹は日本の女優だろう、そうだろう」と断言されてしまうことも度々ありました。みんなが笑っているときにそのジョークが分からないのは本当に虚しく、早くみんなと時間を共有したいとも感じました。幸運なことにここには日本語を学ぶ学生が一週間滞在し、彼女との会話と彼女の大学のレポートを直すことがここで生きる価値を与えてくれました。何かしら自分も人の役に立って、存在感を感じたかったようです。
仕事は簡単なものが多く、りんご、オリーブ、アーモンド、グレープ、ナツメヤシの採集や草むしり、苗植え、煉瓦作り、ビルの煉瓦積み、台所で調理、掃除、子供の世話など挙げればきりがないほど生活に必要なことを、自分たちの力でこなしてしまうことを目の当たりにし、人の可能性の凄さを感じました。私が苦手とするのは台所の仕事で、朝の集会の後6時から13時までと、夕方17時から21時過ぎと、最も拘束時間が長く、この日ばかりは寝ること以外できないほど働くことになるからです。仕事としては200人分の食器を並べたり、洗ったりすることが基本で、トマトサラダを作るときは刻むだけで1時間半もの時間を費やしました。その間、私たちは好きに歌い、おしゃべりをし、また考え事をしたりと疲れない工夫をしました。彼らは「幸せになるために生きること」を前提としているため、私の大失敗も笑って「気にしないで!」の一言で済ませられる寛大さにも文化の差を感じました。彼らが喜んで働くのが私にとってとても不思議で、尋ねると、「人のためにやってると君は思っているようだけど、自分のためにやってるんだ、毎日を充実させるために」という答えが返ってきました。一日一日を愛おしむように生きている彼らと、明日を考えて余力を残す生き方をしている私とでは大きな差がありました。
このときの労働時間は、朝の集会の後6時から11時まで、17時の集会後から夕食の19時まで、さらにまれに夜の仕事があり20時から22時までと私にはとても長く感じられました。疲労を理由に夜の仕事は免除されるときもありましたが、「みんな働いているのに・・・」という罪悪感が生まれ、一緒に仕事する方が心地よいことに気づきました。明日を意識しない生き方に変更した途端、生活に張りが出てくるようになりました。そして人のためになるということは自分のためにもなると改めて認識したのでした。
 思い出深い仕事はナツメヤシのカバー掛けです。5人くらいロフト付の機械に乗り込み、高さ10メートル程の実のなる場所まで上がります。ナツメヤシの葉は堅く、そして若い葉はとがった棘もありました。実が熟れるまでカバーを掛け、鳥から食べられるのを防ぐのですが、天辺にある実に達するまであの嫌な葉を丁寧に切り落とすのも仕事のうちで、慣れていない内に棘に見事にやられてしまいました。このナツメヤシは甘く、叔母に言わせると甘納豆に似ているとのことです。私たちの重要なおやつでもある変わった食べ物は、安息日にも食べることが出来ました。
 金曜日の13時の昼食の後から土曜日は、いつもの汚れた仕事着から真っ白な服に着替えて過ごします。この日ばかりは女性もちょっといいドレスに身を包み、薄化粧をしてみんなの目を喜ばせます。私はあいにく白のいいものを持っていなかったため、自分なりに工夫してこの日を楽しみました。スタッフはこの日までに少しずつ用意していた料理を出し、私たちは席について魚料理が並ぶまで歌を歌ってこの日を祝うのでした。テーブルに揺れるろうそくを見つめて、仲間と過ごす時間は厳かな雰囲気でした。金曜の夜は外出することが出来、岩に上ってドラムで音楽をつくったり、火を灯して寝袋ではしゃいだり、ダンスを踊ったりして過ごしました。この日ばかりはワインも登場し、若いボランティアは少し羽目をはずすのでした。
 イスラエル滞在中、仲間4人でヨルダンにも足を伸ばしました。ぺトラに訪れたとき、まだ薄暗いにも関わらずコーランが流れ、便乗するようにあちこちの家々から歌声が響きわたって、こだまのようにも聞こえました。このたびで私の英語力は一気に上昇します。「美樹もメンバーの一人なんだから同じく意見を言う必要があるよ、その権利があるんだから。」英語力のせいで彼らに任せっきりだったやり方に甘んじていたためです。お互いに反発しながらも仲間として助け合わなくてはいけない、この想いが私たちを強く結びました。そしてこの経験は、強烈に私の中に残り続ける気がします。
 この旅行では一瞬一瞬が未知との遭遇であり、新しい見方を与えてくれました。「頭で考えるよりも、ありのままを感じなさい。それが幸せになる第一歩だよ。」とコビはいつも話してくれました。考えることは下手をすると物事を判断する物差しに使われ、限界をつくってしまうと言うのです。私はそれを受け入れるには時間が必要ですが、彼らを見ていると、いかに人間らしく生きているか感じることが出来ます。もっと多くの人が、この体験を通して、自分のこと、日本のこと、そして恵まれた環境のことを学べたらと思います。
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1997年参加
螺澤智子さんの体験記



 私は2つのキブツを体験してきました。
 まず、“キブツ・ロシャ・ハニクラ”(イスラエル北端、レバノン国境近くにあるため24時間国連平和維持軍が右往左往している地中海に面した景勝地)でのボランティアワークは、キッチンでの仕事でした。早朝5時より朝食の準備にかかり、皆一斉に朝食をとった後は、昼食・夕食用のサラダの下ごしらえをします。日によって異なることもありますが通常は、数種の野菜を洗い、切り、不足のない様に数を確認していきます(途中休憩時間があり)。昼食後、最後の掃除をすれば私の一日の労働は終了(13:30)となります。この領域は、流しが3つ、ボランティアは私とウクライナ人女性の2人、キブツの方3名(みな移住者でアメリカからの男性2人とアイルランドからの女性1人)という状況で、わりと活気に満ちていて楽しかったです。
 と、これが私に与えられた全てで、とてもシンプルなものでした。他にも仕事は色々ありますがどれも単純明瞭で、ボランティアの滞在日数や希望によってはその割り振りを考慮してくれます。仕事が終われば、フリータイム。世界各国からのボランティア達(この時はベルギー、オーストラリア、メキシコ、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、南アフリカ、ニュージーランドなど17〜27歳くらいまでの男女約20名)と語り合ったり、パブに行ったりして、余暇を過ごしていました。部屋は3人部屋、シャワー・トイレ付でした。

 もう一つのキブツ、“マオツ・カイム”はヨルダン国境近くに位置しており、こちらでの私のボランティアワークは洗濯場での仕事(早朝5時から昼頃まで)でした。衣類の仕分けをし、それぞれを3つの大洗濯機に入れ乾燥が済んだものから次のアイロン部屋へ運んでいくというものでした。時にピンチヒッターとしてキッチンへ出かけたり、他のボランティアの代わりをしたりということもありました。こちらのキブツはボランティアの年齢層が25〜35歳くらいと高く、落ち着いて時を過ごすことができました。彼らの出身は南アフリカ、デンマーク、イギリス、アメリカ、韓国、日本、コロンビアなどで、男女半々で約20名でした。部屋の方も2人部屋でシャワー・トイレ付でした。余暇の過ごし方は前のところと似たようなもので、ゲームをしたり、テニスをしたり、遺跡めぐりに街の探検、ヘブライ語のレッスンなどを受けていました。

 キブツはたくさんあるので個人によって当たりはずれはあると思いますが、楽しむことが一番だと思います。これらを通して、己とは何か、平和や自由とは何か、自国について、宗教観、物の考え方や感じ方の違いなどを考えざるを得ないでしょう。私の場合、国境近くのキブツだったということもあり、その交わり、陸続き、共有・尊敬という意味合いなどを探っていましたが。
 イスラエルは日本の四国くらいの小さな国ではありまsが、すべての自然(温帯、冷帯、寒帯、湿地、砂漠など)があり何とも不思議で魅力的なところというのが私の感想です。

 イスラエルという国から攻撃的・危険性という印象は取り払うことはできませんが、キブツ内はとても穏やかで平和的です。(どこにいても何があるかわからないですよね。)
 日本帰国後もキブツで知り合った方々やボランティア達と連絡を取り合ったりと、これからも末永いお付き合いになりそうです。ここで生活体験をし、各国の方々と知り合えたことは貴重な出来事、私の宝となり財産となっています。自分探し、ものごとの価値観の違いを感じるにはもってこいの場所ではないでしょうか。衣食住が確保でき、適度な労働をし、多少の小遣いをもらえて小旅行にまで連れていってくれて、異文化や歴史が学べるのです。
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1990年参加
黒崎弘子さんの体験記



 私は、'90年8/1〜9/3にかけて約1か月の間イスラエルの中のキブツに滞在し、ボランティアに参加した。8/1に入国、その翌日にイラクのクウェート侵略があり、“物騒な時期”にイスラエルに旅行したため家族や友人にひどく心配をかけたが、実際、特に危険なこともなく、新聞やニュースなどマスコミは騒いでいたし多くのユダヤ人がいろいろな議論を交わしていたが、特に緊迫した雰囲気もなかったように思う。
 
 さて、私の滞在したキブツは、エルサレムの北西約12キロの丘の上にある“キブツ・マレ・ハミシャ”である。マレ・ハミシャとは5本の杉という意味で、このキブツを開拓した時にこの丘に5本の杉があったことからこの名前がついたらしい。マレ・ハミシャ(Maale Hachamisha)にはエゲットバスのセントラルバスステーションから約30分ほど186番のバスに乗っていく。料金は、2.7シェケルだ。エルサレムの街をぬけ、テルアビブへの大きな道をぬけ、広がるオリーブ畑やいちじくやプラムの畑をぬけ、細い山道のエキゾチシズム漂うアラブ人の村をぬけ木の茂る山道を登っていくと、小高い丘の上にマレ・ハミシャはある。

 キブツのメンバーは、家族でキブツ内で生活しているユダヤ人と、各国から集まったボランティアが主である。ボランティアの方は観光とバカンスを兼ねてやってくる欧米人、ユダヤ人の血の混じった白人、バカンスとは思えないアルゼンチンからやってきたグループ(職がないからこっちに出稼ぎに来ているのか、それともただのバカンスなのかはわからない)、南アフリカから来ている白人など世界各国から集まってきている。ただ、白人が圧倒的に多く、東洋系(アジア人)は私のいる間は一人もいなかった。昔、二人ほど韓国人が来たことがあるそうだが、日本人はこのマレ・ハミシャでは私が第一号だということだ。(イスラエル国内でもアジア人はほとんど見かけなかった)
 キブツでの労働は週に6日で1日は休みの日だ。平均8時間働くことになっており、また1か月に3日休みがとれる。労働の種類は、うちのキブツではキャンディ工場、キブツの経営するゲストハウス(三つ星ホテル)のベッドメーキング、食堂での給仕、キブツ内ダイニングのキッチンや掃除、牛の乳しぼり、綿つみなどがある。土曜日はイスラエルではシャバット(安息日)といってユダヤ教の信者は、聖書の教えにしたがい、何の仕事もしない。バスもお店もこの日ばかりはすべてストップしてしまう。しかしキブツは年中無休だ。けれど、シャバットに入る金曜の夕食はフルーツゼリーや、時にはケーキ、ローストチキンなど普段よりも立派な食事がでる。日本でいうサタデーナイトのノリで金曜の晩はダイニング前の庭でパーティをやったり、ディスコがあたりして特別な夜でもある。

 享楽的な欧米系白人の若い人達は、金をかけずに遊ぶのが非常に乗ずであるように思う。金曜のディスコはフラットの部屋に自分達でミラーボールや音響セットをつけた“手作り風”。また、テーブルと椅子だけの落書きだらけの他のフラットは、毎日夜になると音楽のガンガンかかったパブに変わり、みんあおしゃべりやゲームに興じるのだ。日本の感覚の“パブ”や“ディスコ”ではなくて、はじめの“パブ”“ディスコ”からのイメージとはかなり違うけれど、彼らにとってはただのフラットの部屋も立派なパブやディスコになってしまうのだ。パーティの方も、甘くてこってりしたいかにも手作りケーキや、セルフサービスの飲み物、陽気な音楽、オープンな雰囲気などいかにも映画の中の“古き良きアメリカ”風ホームパーティである。普段のダイニングルームが、この時だけは大変身するのだ。私はパーティというとお店やホテルへ行くというイメージが強いが、こっちの方ではパーティは作るもので普段の生活の中に自然に溶け込んでいるような気がする。

 キブツ内での毎日は、本当にのんびりゆったりしていて1か月があっという間に過ぎてしまった。私は一人だったおかげで色々な国の人と友達になれたし話すこともでき、毎日が刺激的でもあった。ゲストハウスに行って、(本当はいけないんだけれどアラブ人のキッチンのオーナーの人と友達になってオマケしてもらった)お茶とケーキを食べながら、一緒に働いたことのあるウェイターやウェイトレスさんとおしゃべりしたり、アラブ人村と荒野の広がる谷を見下ろし、ぶどう棚の下でアラブ人村から聞こえてくるスピーカーで鳴り響くコーランを聴いたり、ダイニングルームで食事のあとボランティアの人達とたわいもないおしゃべりをしたり、ゲストハウスのプールで泳いだり(このプールはホテルのプールなのでとても立派)、パブに行ったりでイスラエルの肌を射す太陽の下、夢のような日々でありました。

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